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津軽丸 (2代) : ミニ英和和英辞書
津軽丸 (2代)[つがるまる]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [けい]
  1. (n,pref) light 
: [まる]
 【名詞】 1. (1) circle 2. (2) full (month) 3. (3) perfection 4. purity 5. (4) suffix for ship names 
: [よ, しろ]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 

津軽丸 (2代) : ウィキペディア日本語版
津軽丸 (2代)[つがるまる]

津軽丸(つがるまる、Tsugaru Maru)は、国鉄青函航路車載客船で、津軽丸型の第1船、同航路初の自動化船であった。青函連絡船の津軽丸としては2代目であった。なお、本船から国鉄青函連絡船のファンネルマークは「工」から「JNR」に変わった。ここでは、津軽丸および津軽丸型車載客船について記述する。
== 津軽丸型建造までの経緯 ==
1960年(昭和35年)頃の青函連絡船は、全14隻のうち、洞爺丸事件後に建造された3隻以外は、全て戦中から戦後の混乱期に建造された戦時標準船またはそれに準じる船で、種々の船質改善工事を重ねながら十数年間使用されて来たが、老朽化とともに維持費も増大し、1959年(昭和34年)9月に出された国鉄内の「連絡船船質調査委員会」の2年間にわたる調査報告でも、“これ以上の長期使用は得策ではない”、とされた〔青函連絡船史p72 国鉄青函船舶鉄道管理局1970〕〔古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p159 成山堂書店1988〕。折しも高度経済成長時代となり、急増する旅客、貨物に対応するためにも、国鉄はこれら老朽船を取り替える方向にふみ切り、その方法を検討するため1961年(昭和36年)1月、「青函連絡船取替等計画委員会」を設置し、同年5月には第1回の中間報告が出された。
それによれば、第1順位として、300~400名の旅客とワム換算43両の貨車を積載できたデッキハウス船第六青函丸第七青函丸第八青函丸の3隻を、800~1,000名の旅客と、1,000トン列車1本に相当するワム換算48両の貨車を積載でき、1日2.5往復可能な高速車載客船3隻で置き換える。
第2順位として、当時1,400名前後の旅客と、ワム換算19両の貨車を積載できた車載客船大雪丸(初代)摩周丸(初代)羊蹄丸(初代)の3隻を、1,500~1,700名の旅客と、ワム換算27両の貨車を積載でき、1日2.5往復可能な高速車載客船2隻で置き換える。
第3順位として、当時ワム換算46両の貨車のみ積載の車両渡船第十二青函丸と、ワム換算44両の貨車のみ積載の車両渡船石狩丸(初代)渡島丸(初代)の3隻を、ワム換算48両の貨車のみ積載でき、1日2.5往復可能な高速車両渡船2隻で置き換える、というもので、これら計7隻を1967年(昭和42年)度までに建造するという計画であった。
この計画に基づいて、第1順位の第1船が1962年(昭和37年)11月8日に浦賀重工へ、第2船が1963年(昭和38年)6月13日に新三菱重工神戸造船所へ、それぞれ発注され〔古川達郎 続連絡船ドックp12 船舶技術協会1971〕、第1船は 1963年(昭和38年)5月24日起工され建造中のところ、それまでも旅客定員はたびたび増やされてはいたが、同年6月12日には更に1,100名から1,200名に増員された〔古川達郎 続連絡船ドックp16 船舶技術協会1971〕。 そして同年8月13日には、上記置き換え対象の老朽船9隻を、当初予定より2年前倒しの1965年(昭和40年)度までに引退させ、この時建造中の旅客定員1,200名に増員された ワム換算48両積載の高速車載客船のみ6隻で置き換えることに変更され、旅客定員1,500~1,700名の車載客船案は消滅した。
これは、1961年(昭和36年)当時の予測に比べ、その後の貨物輸送量の伸びが著しく〔1961年(昭和36年)当時の予測は、1965年(昭和40年)度片道310万トン、1970年(昭和45年)度片道360万トンであったが、1963年(昭和38年)当時の予測は 、1965年(昭和40年)度片道332万トン(上り実績は328万トン)、1970年(昭和45年)度片道390万トン(上り実績は472万トン):青函連絡船史p74、241 国鉄青函船舶鉄道管理局1970(1970年度輸送実績(出典元は上り下り逆に誤植:青函連絡船栄光の航跡p377 北海道旅客鉄道株式会社1988)〕、より早急な貨車航送能力の向上が求められたことと、旅客が集中する深夜便については、定期客貨便増発により、その増加率の低下が見込め、定員1,200名なら、続行便2隻で運べると判断されたためであった〔青函連絡船史p72~75 国鉄青函船舶鉄道管理局1970〕〔古川達郎 鉄道連絡船100年の航跡p160 成山堂書店1988〕。
この第1船が津軽丸と命名され、1964年(昭和39年)3月31日竣工、4月11日函館港回着、4月14日7108便〔函館4岸10時45分発、青森2岸15時30分着:函館市青函連絡船記念館摩周丸 青函連絡船運航ダイヤ実績表 昭和39年4月14日 国鉄青函船舶鉄道管理局1964〕より貨車航送のみの試運航開始し、5月10日変14便より旅客扱い開始し本就航した〔青函連絡船史p77 国鉄青函船舶鉄道管理局1970〕〔14便は函館2岸18時10分発、青森1岸22時50分着のところ青森2岸22時25分着の4時間15分運航で、変14便とした:函館市青函連絡船記念館摩周丸 青函連絡船運航ダイヤ実績表 昭和39年5月10日 国鉄青函船舶鉄道管理局1964〕。引き続き 八甲田丸松前丸(2代)大雪丸(2代)摩周丸(2代)羊蹄丸(2代)の6隻が1965年(昭和40年)8月5日までに就航し、老朽船9隻は、同年9月30日終航の石狩丸(初代)を最後に引退した。しかしその後の輸送需要は、客貨とも1963年(昭和38年)8月の予測を大きく上回る伸びで、国鉄は1965年(昭和40年)10月22日、更にもう1隻の同型船の追加建造を決定し、11月15日に浦賀重工へその建造を発注、 1966年(昭和41年)2月15日起工し、1966年(昭和41年)11月1日、2代目十和田丸として就航した〔青函連絡船史p78 国鉄青函船舶鉄道管理局1970〕〔古川達郎 続連絡船ドックp12 船舶技術協会1971〕。これら7隻を「津軽丸型」と呼んだが、津軽丸引退後は残った船を国鉄内では「八甲田丸型」と呼んだ。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「津軽丸 (2代)」の詳細全文を読む




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